中学部時代の話

今回は私が中学生の頃の話をしたいと思います!
中学から支援学校(普通科)に入学します。
家から学校まで片道1時間半掛かって通っていました。
(事業所の運転手さんに送迎を頼む場合は他の生徒さんと一緒に行っていたのでさらに掛かっていましたw)
最初の頃は、手術して日が浅かったので1か月間は母に付き添ってもらっていました。

中学部時代は人生の中での地獄パート1でしたw
1年生は体調もよかったので楽しかったです。
2年生は、、、体調が悪くなり学校へ行く意味が分からなくなり不登校になります。
3年生は色々大変でした(;´∀`)

目次


1⃣ 【入学前手続き】
2⃣ 【入学!普通の学校と支援学校のギャップ、強制生徒会加入、初めての文化祭】
3⃣ 【最初は順調だったけど体調悪化で不登校、学校へ行く意味とは】
4⃣ 【不登校の3年生、担任の先生との相性、再び吐血】
5⃣ 【再度漏斗胸の手術決定】

入学前手続き

入学前の手続きは「小学校時代の話」でも少し書きましたが県庁での面接と、
再度IQを再度調べることでした。
ちなみにですが、普通の支援学校入学者は県庁で面接をしなくていいですw
私は体調が不安定で入学手続きがギリギリだったので面接するように言われただけですw

IQを再度調べる理由は、支援学校ではIQによって授業内容(勉強すること)が違うからだそうです。
私が通っていた支援学校では学年以外に、同級生でも授業内容の違う「グループ」というものがあり大きく分けて4つありました。
1つ目はバリバリ勉強!休み時間なにそれ?w『Ⅰグループ』(多少大袈裟に書いてます。)
2つ目は個々に合わせてゆっくり授業!『Ⅱグループ』
3つ目は勉強も大切だけど体もリラックスさせよう!『Ⅲグループ』
4つ目は病院で体調に合わせて少しずつ!『訪問授業』
この4つです。

IQでグループが決まってしまうので、「ゆっくり授業したいからⅠグループからⅡグループに移動したい!」と言っても「無理です」と言われますw
先生側の意見は「りんたさんがⅡグループに行っても授業が簡単すぎて暇になると思う」とのこと。
私はそれでもいいから休み時間がほとんどない授業スタイルよりゆっくりできる授業スタイルの方がいいと思っていましたが、結局中学高校の6年間Ⅰグループで耐えました(;´∀`)
ちなみにその逆(ⅢグループからⅡグループ)はありみたいですw

入学!普通の学校と支援学校のギャップ、強制生徒会加入、初めての文化祭

入学したばかりの頃、普通の学校と違いすぎて(時間にルーズ)ビックリいましたw
入学した最初の数日はただひたすらゆっくり休む時間割だったので、「これが支援学校、、、今は何をする時間なんだ?」と「???」でいっぱいでしたw
(すぐに本当の現実を知ることになりますがw)

ちなみに私の1年のときの担任の先生の第一印象は、「頼りなさそうな男性教員、、、」でしたw
連絡帳無くして大慌てしたり、忘れっぽかったり、オヤジギャグ言ったりww
ですが一緒に過ごすうちに「おっちょこちょいで楽しくて頼りになる先生」ということがわかりました( *´艸`)

オリエンテーション(授業説明)の後、初めての通常授業日。
私はⅠグループでした。
同じグループで勉強する同級生は1人だけだったので、先生1人に生徒2人で授業を受けていました。
普通の学校と同じような授業なんだな~と最初は思っていました。

私が通っていた学校では、数回しか号令チャイムが鳴りません。
それぞれのグループで授業開始時間が違うからと、1時間目の開始チャイムと5時間目の開始チャイムぐらいしか鳴りません。
なので授業終了時間になっても先生が気づかないので授業が続きます。
そして次の授業の先生が来てから、前の授業の先生が授業時間が伸びていることに気がつくのです。
先生がバトンタッチで入れ替わり、休み時間なしで次の授業開始(´-ω-`)
もちろん時間通り終わってくれる先生もいましたが、授業終了時間気がつかず休み時間なしが多々ありました。

これが支援学校、、、?ひょっとして普通の学校より厳しいんじゃないか?と思いましたw
私が「授業終了時間です」と先生に発言すればよかったのですが、当時は先生に発言するのが苦手で言えなかったので自業自得だとは思っています(;´∀`)
ただ休み時間が減るということは、トイレ休憩や給食時間も減るということです。
さすがにそれだと体調を崩すので、その後母から先生に「もう少し授業終了時間ピッタリに授業を終わって欲しい」と伝えてもらいました。
母に言ってもらってからは最初の頃よりは休み時間がないということは無くなりました。

支援学校でも委員会活動がありました。(部活はないのに、、、(。-`ω-))
何に入ろうかと考えていたとき、とある先生に「生徒会入ってくれない?」と言われました。
私はやることが多くて重役の仕事がある委員会は絶対嫌だと思っていました。
ですがその先生に「生徒会やれる人少ないし、ただでさえⅠグループ2人しかいないんだから入ってくれるよね?」と言われました(;´∀`)
普通はⅠグループの人が各学年に1人以上いるはずなんですが、私が入学した年はⅠグループの人数が同級生の1人と私の合計2人しかいませんでした、、、。
(他の学年はⅠグループの生徒がいない。)
なので断れず半ば強制で、、、生徒会加入、、、。

さて、月日は流れて初めての文化祭です!w
1年のときはバケツで稲を育てて、バケツ稲成長記録の発表をしました。
私の家は田んぼ農家なので稲に使う土などは簡単に手に入りました。
一緒に勉強していた同級生と先生の3人でお互いにイタズラしながら楽しく稲を育てていました( *´艸`)
懐かしいですw
2人で発表原稿を考えてパワーポイントを作って発表しました。
内容は普通の成長記録発表だったので見ている人はつまらなかったかもしれないですが、3人でした作業中の出来事がいい思い出ですw

最初は順調だったけど体調悪化で不登校、学校へ行く意味とは

春休みの間に漏斗胸の金属バーを抜く手術をしましたが無事に成功して進級できました。

2年になり後輩が入ってきました。
同じⅠグループの後輩は2人でした。
後輩と関わることは今までほとんどなかったのでどう接したらいいかわかりませんでした(;´∀`)

2年の担任の先生は「個性的で面白い男性教員」でした( *´艸`)
旅行好きで少し女性っぽい口調で、アイコンタクトで言いたいことをわかってくれる先生でしたw
その先生は社会の先生だったのですが、授業中に話が長くてよくウトウトしていましたww

先生とも後輩とも仲良くなり始めた1学期終り頃。
学校の帰り道、突然吐血します。
両手いっぱいの血を何度も吐きました。
原因は何だったのか、、、おそらく溜まりに溜まったストレスの影響だと思います。
急いで病院に向かい胃潰瘍の点滴を入れてもらうと吐き気がなくなり、血も吐かなくなりました。
吐血して入院をしているとき心の中で何かがポキっと折れる音がしました(´-ω-`)
吐血してまで学校に行く意味があるのか。ストレスを溜めて頑張って何の意味があるのか。
兄は学校行ってないのに私だけなぜ頑張らなければいけないのか。(兄も当時不登校生)
でも学校は行かないといけない。でも辛い。
という闇を抱えていました(;´∀`)
このことを母は理解してくれて「そんな思いまでして学校いかなくていい」と言ってくれました。

退院してから学校は午前中だけ行ったり、週に1回だけ行ったりそんな感じでした。
学校に行かない日は事業所にお世話になっていました。
事業所の方も事情を分かってくれていてつらくて学校へ行きたくないときには「うちへおいで」と、逃げる場所を作ってくれました。
母と事業所の方には感謝です。

ですが同じⅠグループの同級生には迷惑を掛けたと思います、、、。
重役の仕事を1人にまかせっきりでした(~_~;)

そんな日々が中学3年まで続きます。

不登校の3年生、担任の先生との相性、再び吐血

中学3年生は地獄でした。
まず担任の先生との相性が悪かったです。
世間一般ではイケメンの熱血男性教員でしたが、私は熱血で押しが強い人は苦手だったのでとてもきつかったです。
とても熱心でいい先生ではあったと思うのですが苦手でした(ーー;)
避けようとすればするほど追いかけてくるようなイメージの先生でした。

3年生は進路先を確定する年でもあるので、真面目なその先生は早くプランを立てて確定してしまおうという感じでした。
体調が不安定でプラン通りにいかずプランが崩れる可能があるからゆっくり決めようと言ったのですが、「私がプランを早く立てておきたいんです!」とのこと、、、w
そのぐらい押しが強い先生でした(;´∀`)
ちなみに当時は支援学校の高等部に進学するか、被服科がある近所の高校に入学するか悩んでいました。
何度か被服科がある高校にオープンキャンパスや見学に行っていました。

ですがある日、、、また吐血します。
前回と同じ量の血を吐きました。
吐血した次の日に胃カメラを飲んで検査をしましたが異状なし。
それどころかキレイな胃でしたw
どういうことなのか、、、原因不明でしたw
(やっぱりストレス、、、?w)

再度漏斗胸の手術決定

卒業が近づいてきたとき、、、手術が決まりました。
漏斗胸の金属バーを再度入れる手術です。
普通は骨が固くなれば金属バーを再度入れる必要はないのですが、私の骨は柔らかく重力に負けて肺を圧迫している状態でした。
座っていると息が苦しく大量の油汗をかいて髪の毛がびしょびしょになっていました。
なので再度手術を受けることに、、、。

ここからさらに熱血先生のことが嫌いになっていきます。
手術後予想していたよりも術後経過の状態が悪く気管挿管を1度抜くも痰で息が出来ず再度気管挿管することになりました。
1週間ICUで過ごしました。
そんな中、学校から電話が掛かってきます。
母も熱血先生が苦手で、こんな状況だったのでメンタルダメージが大きく電話に出なかったそうです。
ですが何度も電話が掛かってきて父が電話の対応をしたそうです。
術後1週間経っていないのに何度も電話が掛かってきたそうで(調子はどうですか?と)参ったそうです。
先生側は状況がわからないから電話を掛けてくるというのは分かっていたのですが術後2週間は電話を掛けてこないで欲しかったです(´-ω-`)

無事、気管挿管が取れて一般病棟に移りました。
ですが本当の山場はその日の深夜におきます。
人工呼吸器のマスクをつけていたのですが一気に痰が上がってきて窒息しかけました、、、。
看護師さんに背中や胸を叩いてもらいながらなんとか乗り越えました。
深夜だったので眠いのと術後の傷が痛いのと最悪でした(~_~;)
一気に痰が絡んだ理由はおそらく病棟を移動するときの振動が原因だと思います。
振動で肺に溜まっていた痰が一気に出てきた感じです。
あの時はとてもしんどかったです。

結局手術の影響もあり体調が不安定なので支援学校の高等部に進学することになりました。

中学部時代の話は以上です、、、!
高等部はさらに試練多き年になります(ーー;)
ですが試練を乗り越えた先に今好きなことが出来きているのでとても幸せです!

高等部時代の話は時間があるときに投稿しようと思います!
最後まで読んでくださりありがとうございました(´▽`*)

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